会員限定
対話型イベント

探求の会

一つのテーマをめぐって、言語が無力化し、習慣化した頭脳が活動停止するしかない限界域に追い込み、「探求」をおこないます。参加者の個別性は、いつとはなく消失し、その集団があたかも一つの人格となって、疑い、推測し、ついに気付くという特異な作業空間が立ち上がります。

探求について

ちょっとした用件があるので、
複雑な気持ちを説明したいので、
過去の誤解を解きたいので、
あのひとの愛を自分のものにしたいので、
誰も考えたことのない事業をおもいついたので、
ふとひらめいたアイデアがあったので、
話す。

少しだけ話す。
精一杯話す。
もうくたくたになるまで議論する。
ねえ、頼むから分かってよ、と懇願する。
ごめんね、と思い切って口に出す。
コノヤロー、と怒鳴る。

どんなふうに話してみても、私の中にあるものは、どこにもちゃんと届けられずに、残されている。
伝えられない何かが残る。
いや、もしかしたら、私のすべてが伝えられていないのかもしれない。

人間は、おびただしい数の言葉をつくりだし、高度な科学の体系を築き、複雑な概念を分析、説明し、深い感慨を伝えようと新たな語彙づくりに努力しているのだけれど、「気持ちを伝える」という単純な目的についてさえ、うまくいっているとはおもえない。

なぜ、うまくいっていないのか。
モノでしかない、記号でしかない言葉を利用しているからか。
相手が本気で知りたい、とおもっていないからか。
真剣さに欠け、言葉に生命が宿っていないからか。
どれだけ長い時間話し合っても、時には数十年連れ添って、数え切れない量の言葉を交換してきたというのに、互いに何も学べず、共有できなかった、と落胆するひとたちもいる。

探求は違う。
ただ、「考える」こととも違う。
ただ、「話し合う」こととも違う。

「意見交換」でも、「議論」でも、「討論」でも、「雑談」でも、「お喋り」でも、「分析」でも、「考察」でもない。
もしかしたら、百万人にひとりくらいしか、探求を自覚的に経験していないのかもしれない。
この会は、その「探求」をやる場である。といっても、やる気だけで探求はできない。
それは「起こる」ことであって、願望や努力だけで「起こす」ことは出来ない。日常の生活では、「呼吸する」と「話す」の区別がつかないほど、意識なく話してしまっている。いい加減に口を動かしながら、そのいい加減さに気づいていない。
反対に、とても話す言葉を意識して、厳密に語彙や論理を操作しながら、議論したり、討論したりするとなると、頭が言葉選びに埋没してしまい、相手の気持ちを察するゆとりなどなくなる。「厳密に話せたのだが、しっかり伝えられたという手応えはない」ことになる。

愛し合う二人の間ではどうだろうか。
愛は探求そのものではないか。
だとしても、その愛は本当に愛なのか。支配欲や自己完結した享楽の混じらない愛なのか。
利己欲の炎を愛と誤認してはいないか。
妄想が創作した「甘美な夢」への期待にすぎないのではないか。
娯楽への耽溺から愛はうまれるだろうか。

探求は、思考が納得する決定的な答を手に入れる行為ではない。その点では愛と同じだ。
「ひとつ」と数えられれば、有限。
それはすなわち、制限されている。
言語や数値で表現された答は、どれほど見事なものであっても、「つくりもの」でしかなく、真理そのものではない。

言葉は、モノそのものではないし、コトそのものでもない。

言葉を発する主体の意識が、ある種のエネルギーとなって、未加工で無調整の意味を伝播する。その意味を、いかなる変形・変質もなく受容し、共有する生命体が存在しえたとき、探求は起こったのだ。

真に自律的な生命体と生命体の関係の中でしか、探求は生じない。

(2011.10.27版)

過去の探求の会

【探求の会 お申し込み方法】

参加ご希望の方は、下記に記載している「お申込方法」に添って、テーマに関する文章の提出をお願いいたします。(応募が定員5名を超えた場合は抽選となります)

また、K's Pointにおける「探求」の趣旨をよくご理解いただいたうえで、お申し込みいただきますようお願いいたします。

『分断—Division』

人間は我儘な存在だ。多数のひとと連帯が意識され、一つになることは喜びでもあるが、ひとりで過ごすくつ ろぎの至福も捨て難い。その場合、自己の他者に対する分断化を正当視することになるのか。 また、現象世界の営みの中、離れたくない、離したくないひととの離反も、縁切りを切望しても切れない関係も、地獄だ。

人類社会に見られる多様多彩な分断は、それが個々のワガママな意識の作用であれ、個々の民族間の集団的エゴの不調和のせいであれ、それらの意識の根底に存在する異化(拒否)への本能のようなものはなぜ発生するのか。
「戦争の中での安息」や「幸福の中の虚無感」があり得ないことでない説明を、あなたはどうする。



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【日時】
2024年10月26日(土)午前10:00-午後4:30
・台風の影響により、当初の予定8月31日から延期になりました。

※途中休憩・昼食時間(60分)を含みます。昼食はご自身で用意したものを会場でとっていただくか、近辺の飲食店をご利用ください。


【場所】K's Point 研求センター

【参加費】3,000円(会員限定10回分チケット1枚+1,000円)

【定員】5名
【主催】K's Point


【お申込方法】

テーマに関する自己のおもいを400字以内にまとめた文とともに下記アドレスまでお送りください。

[email protected](担当:伊藤)


【受付締切】◎受付終了しました

2024年8月24日(土)

ご参加希望者(文章提出済の方)が5名を超えた場合は、受付け締切後抽選で決定し、直ちに結果をお伝えいたします。

(抽選に際して、提出いただいた文章の内容、表現技術等の評価はしませんので、提出者が抽選対象からあらかじめ排除されることはありません)


〈キャンセル料について〉

本企画では、開催日の2日前(午前11時)以降のキャンセルは、参加費の70%のキャンセル料が発生いたしますのでご了承ください。
※天災等による、道路・鉄道の通行止めや運休、体調不良が理由の場合などは、キャンセル料は発生いたしません。

『「私」の存在意義』

人間の経験、あるいは経験する世界から、客観主義を排除し、人間各自の主観的経験をとりあげた西洋人の ひとりがキルケゴールであった。

「明らかに無意味な世界において、自由を渇望する個人が直面する混乱と不安」を思索の対象とした彼の哲学は、やがて実存主義Existentialismとして進化していく。 
さて、その自由は、いま「私」において実現しているのか。「私」と呼ばれる個人の存在を、われわれが、それを生きる当人として、どこまで理解しえているのか。「個の尊重」を支える基盤は、信頼できない「社会」という集団である。「個の解放」を許容するのも、個を支配する既存の生存圏に属する権威である。
「私」は、どこに、どのように、なにゆえに、概念を超えて、実在しているのか。


【日時】2022年11月23日(水・祝) 午前10:00-午後4:00 ※途中休憩・昼食時間を含む。
【場所】K's Point 研求センター
【参加費】3,000円
【定員】5名
【主催】K's Point

『空白』

幸せは、要するに、空腹を満たし、願望を満たし、空虚を満たす事態の実現である、ととらえられているようだ。
ひとの歴史において空白は、怪しまれる。
逃避的で、混迷、混乱、公表に不都合な時間という悪意の暗示を読み取る者もすくなくないだろう。
感触をよりどころに直裁の価値をさぐる身体の原始的感性にとって、空白は不気味に不確かである。
無の思想、空の宗教観においては、空白は、例外的に、特段の輝きを増すが、日常の感覚からは遠く隔たった存在とみえる。

【日時】2021年12月11日(土) 午前10:00-午後3:30
 ※途中休憩・昼食時間を含む。
【参加費】3,000円
【会場】K's Point研求センター
【参加者】5名
【主催】NPO K's Point