クリシュナムルティの生涯
ジッドゥ・クリシュナムルティ
Jiddu Krishnamurti |1895-1986
※本文ではJiddu KrishnamurtiをKと表記する(括弧内の数字はKの年齢)
◆1895/5/11
西洋暦では5月12日の午前0時30分に誕生したと推測される。ヒンズーの習慣では占星術の見解に拠って、「胎児の頭が見えた瞬間」が誕生時間とみなす。
インド、マドラスから150マイル北にある小さな丘の町マダナパルMadanapalleのバラモン階級の家に生まれた。8番目の子だったので、クリシュナ神に因んでクリシュナムルティと名づけられた。ちなみにJiddu家はテルグ語(Telugu)を喋る。
この地域で最も高名な占星術師のKumara Shrowtuluは「この子は並外れて魅力的で偉大な者になるだろう」と父に告げた。
曾祖父はサンスクリット語の著名な学者、祖父も大変学問のあるひとで役人であった。父ナリアニアNarianiahはマドラス大学を卒業して大英帝国政府機関の財政部門の役人であったので、Kの生まれた当時、その家庭はインドの水準では貧乏ではなかった。
母サンジバンマSanjeevammaは11人出産したが子供時代を生き抜いたのは6人であった。「美しい音楽的な声の持ち主で、私に歌って聞かせるのが好きだった」(父ナリアニアの証言)
◆1897(2)
マラリヤに罹り死にかける。(この後、長い年月発作的な高熱に襲われ、鼻からの出血に苦しめられる)
◆1901(6)
バラモンの男子が皆通り抜ける儀式ウパニャーナムUpanyanamに参加。バラモンとしての自覚をもたされる。学校に通う年齢に達したが、高熱の発作などのため丸1年休学。
教科書には関心を示さなかったが、樹木、植物、虫、雲、空を執ように見つめる子供であった。
◆1903(8)
一番上の姉(20歳)、マラリヤで死亡。この後Kは霊視力を発揮し始める。
◆1905/1/7(10)
母死亡。「母はひとのオーラを見ることが出来た。私も、また、時々見えた」「母の死に関わる事で、言っておいてもいいかとおもえるのは、母の死後、私は頻繁に母を見たのである。ある時、母の姿を追って、2階まで行ってみた。私は手をのばし、母のドレスをつかんだとおもえたが、階段の一番上に差し掛かった瞬間、彼女は消えてしまった。」(18歳のKのメモ)
◆1907(12)
弟のニティヤNityaと共にマダナパルMadanapalleの高校に入学。
◆1909(14)
父(52歳)が退職し*1神智学協会に職を得たのでアディアールAdyar(マドラス近く)に4人の息子たちと引 越す。KはマイラポールMylaporeの高校(Pennathur Subramanian High School)に通う。
神智学協会の指導者リードビーターCharles Webster Leadbeaterに見出される。Kは家から離れ、厳しい霊的修行を受ける。
「海岸でみかけたひとりの少年がとても素晴らしいオーラを放っていた。その子には利己心のかけらもなかった。」(リードビーター)
しかし、一方で、Kの宿題などをみていたアーネスト・ウッドEarnest Woodは「類をみない愚鈍な少年」とおもっていたので、この指摘に驚く。この当時Kは英語も当地の言語タミール語もほとんどしゃべれなかった。
*1 神智学協会 Theosophical Society
近代の神秘主義的宗教結社。1875年、ブラバッスキイ夫人とH・S・オルコット大佐によってアメリカのニューヨークに創設された。79年に2人は渡印、86年には協会の本部をインドのマドラス郊外に移し、以後インドを拠点に伝道活動が行われた。89年にはイギリスの女性社会改革家のA・ベザントが協会に加入、彼女の人格的感化により協会は隆盛に赴いた。この協会の主張する神智学theosophyとは、ギリシア語の神theosと知恵sophiaからなり、神秘的体験によって神の本質を把握できるとする。この神智学によって世界の諸宗教を統合するのが、協会の目的であった。 〈増原良彦〉『大日本百科事典』小学館
尚、ルドルフ・シュタイナーRudolph Steinerは、1913年に、神智学協会のドイツの支部(lodgeと呼ばれた)をほとんど引き連れて脱会し、人智学協会Anthroposophical Societyを結成した。
◆1909(14)12/31
聖人クートフーミMaster Kuthumiに受入られる(神智学の見解)。
「とても美しいところだった。聖人の家にいきクートフーミと聖人モーリヤ、それに聖人ディワル・クルに会った。皆立ったまま話していて、とてもやさしく語りかけてくれた。(略)聖人クートフーミはぼくを膝に引き寄せて、利己心をもたず、どのように世界を救うかだけを考えなさい、といってくれた。」
(*2ベサント女史Mrs. BesantへのKの手紙)
◆1910/1/11(15)
最初のイニシエーションを受ける。「マイトレーヤ(救世主)は「知識の鍵」(the Key of Knowledge)を与えてくれて、いつ、どこで*3白色聖教団の一員に出合ってもわかるように指導してくれた。」(ベサント女史へのKの手紙)
Kが書いたといわれる*4『At the Feet of the Master』が12月に出版される。
*2 ベサント女史 Mrs. AnnieBesant
1907年神智学協会の会長に就任する。1933年に亡くなるまで、Kが神智学協会から脱会後も深い関わりを持ち続けた。
*3 白色聖教団 The Great White Brotherhood
*4 『At the Feet of the Master』
K自身も自筆であることの確証がない本。日本語の翻訳版は『大師のみ足のもとに』(竜王文庫)
◆1911/5/28(16)
最初の演説をロンドンで行う。
◆1912/5/1(17)
2回目のイニシエーションを受ける。(英国で英才教育を受けた後、「星の教団」the Order of the Star in the East の指導者となる。)
◆1913/10 (18)
ドッジ婦人Miss Dodgeから年額500 ポンドの支給を受けることになる。
◆1917/10(22)
ニティヤの目をヒーリングする。
◆1918 (23)
オックスフォード大学にKは不合格、ニティヤは優秀な成績で合格。Kはケンブリッジ大も駄目と分かりロンドン大学の聴講生になる。
◆1920/2/8 (25)
パリに滞在。目に見えない存在(otherness)を強く感じる。
9月にニティヤとロンドンに帰る。10月、ラジャゴパルRajagopalに出合う。
◆1921/7/27-28 (26)
星の教団の第1回世界大会をKは一手に引き受け、成功させる。
9月にオランダでヘレン・ノーズHelen Knotheに出合い恋に落ちる。
◆1922/8/17-20(27)
3回目のイニシエーションととれる心身の激しい変化を経験する。
◆1924/4(29)
リードビーターがシドニーからロッケ博士Dr. Rockeを派遣しKを診察させたが、激しいプロセスが続いているものの身体は持ちこたえられると判断。
◆1924/9/24 (29)
この日の夕方マイトレーヤLord Maitreyaが来てKと共に長くとどまり次のようなメッセージを残した。(Kが書き取ったもの)
※「私につかえることだけを学びなさい。そうすれば私を見出すでしょう。自分を忘れれば私は見出されるでしょう。聖者たちを求め歩くのは愚かなことだ。それは、太陽を探し回っている盲人のようだ。食べ物が与えられているのに食べようとしない空腹な人のようだ。
あなたが求める幸福は遠く離れた所にあるのではない。どこにでもある石にも宿っているのだ。私を見ようとすれば、そこに恒に私はいる。私に助けさせてくれるなら、私はいつでもあなたを助ける。」
※この部分の原文
Learn to serve Me, for along that path alone will you find me(Me)
Forget yourself, for then only am I to be found
Do not look for the Great Ones when they may be very near you
You are like the blind man who seeks sunshine
You are like the hungry man who is offered food and will not eat
The happiness you seek is not far off; it lies in every common stone
I am there if you will only see. I am the Helper if you will let me help.
◆1925/11/13 (30)
弟ニティア、アメリカのオーハイで死去。翌日Kはインドに向かう船上でその訃報を知り10日間悲しみに打ちひしがれた。
悲しみを克服したKは別人になった。「Kの顔はまぶしいほどに輝き陰影が全くなかった。」(同船していた友人)
K自身も次のように書き記している。
「物理的な世界では、ぼくたちは別れ別れになってしまったが、事実として二人はひとつになった。(中略)いまよく分かった、この人生がなんて美しいものであるか、ということが。どんな出来事によってもひるむことのない偉大な力が、完全で不滅な偉大な愛の力がここに存在することを知ることができた。」
◆1926(31)
インドのリシ・バレーRishi Valleyに高等学校の設置が決まる。(Kとしては大学を開学したかった)
◆1926/7/19 (31)
朝約1時間「神 」(the Lord)がK を通して話した(と居合わせた者は強く感じた)。8日後の夕方のキャンプファイヤー時に再び「神」からの発言。
8/26
ニューヨーク・タイムスの質問に答えてKは結婚観を述べた。
「ひとは寂しいから結婚する。しかし、わたしには寂しいということはありえない。だれも奪えないものを私は持っているから」
◆1927/1(32)
激しい痛みを伴い*プロセスが始まった。
*プロセス process
(1922年) 8月17日の夕方、Kはやや疲れて、落ち着きを失った。見ると首筋の中ほどにおはじき大のこぶができ、いかにも痛そうであった。その日は何もなかったが、翌朝の朝食後、容態が明らかに悪化した。彼はベッドの上で痛そうに展転反側し、うめき声をあげた。しばらくしてそれがやんだ後、今度はちょうどマラリア患者のように全身に震えが走り、彼は歯を食いしばってそれに耐えようとした。それから、ひどく熱いと訴えた。目を見ると、異様な無意識状態になっていた。(中略)そして明くる20日にはさらに悪化しつつ、クライマックスを迎えた。(中略)夕方、われわれが夕食を終えるまで、彼は静かにしていた。すると突然、家全体がものすごい力に包まれ、Kはものに取りつかれたかのごとき様子になった。彼は誰も近づけようとせず、ただ、ひどく部屋が汚れている、ベッドも何もかも汚れていてとても我慢できないなどと口走った。
(弟のニティーアがベサント夫人に宛てた手紙)
『クリシュナムルティの世界』大野純一編訳・コスモスライブラリー(1997)
◆1929/8/3 (34)
真理を組織的に追求することは無意味として、同教団を解散する。翌年神智学協会から脱会する。
「※真理に到る道はない。どんな道を選んでも、どんな宗教によっても、どんな流派に入っても、真理に到達することはできない。これが私の確信です。(中略)
信仰は純粋に個人の事柄であり、それを組織することなど出来ないし、すべきではない。
(中略)"あなたの教団は何人の信徒がいるのですか。数によって、あなたの言っていることが正しいか間違っているか判断しましょう"というひとたちがいる。私は信者の数など知らないし、何の関心もない。たったひとりでも解放された人間がいたら、それで十分だ。」
※真理に到る道はない。の原文: Truth is a pathless land.
◆1946/9(51)
ハッピー・バレー校The Happy Valley School開校。(アメリカ・オーハイ)
◆1953(58)
『教育と生の重要性』(Education and the Significance of Life)が初めて商業出版社から刊行される。(アメリカではHapper & Row, イギリスではGollancz)
◆1956/12(61)
ダライ・ラマDalai Lamaがインドを訪問した時、Kに会談を求める。会談後「偉大な魂だ。実に重要な体験だった。」とダライ・ラマは語る。
この頃からインディラ・ガンジーIndira Gandhiの相談相手になる。(政治的な意思決定や問題解決にKが直接関与したわけではない。)
◆1969(74)
14歳以上の子供たちのための国際学校ブロックウッド・パーク校Brockwood Park School開校。(イギリス・ブラムデン)
◆1979/11(84)
インドのリシー・バレー滞在中、万物のエネルギーの根源に出合い、それ以後1980年1月末まで無限の拡がりと途方もない美の感覚にみたされる。
◆1986/1/4(90)
Kは、この日、インドのバサンタ・ビハールVasanta Viharで、生涯最後の講話を次のように閉じた。
「創造ほど神聖なものはない。人生においても最も神聖なものだ。もし、それをめちゃくちゃなものにしているのなら、取り戻しなさい。明日ではいけない、今日、生き方を変えなさい。はっきりしないのなら、今はっきりさせなさい。真っ直ぐに考えられないなら、真っ直ぐに、理にかなって考えなさい。これらのことが出来ていなければ、この創造の世界には入ってこれません。終わろう。(微かな声)
(長い沈黙の後)これは最後の話です。一緒に、少し静かに座りましょうか。じゃ、みなさん、少し静かに座りましょう。」
2/17
午前0時10分、米国カリフォルニア州オーハイのパイン・コテッジPine Cottageのコショウの樹に面した部屋で死去。64年前その樹の下でKは意識の大変革を経験したのだった。死の床に付き添っていた友人のひとりププル・ジャヤカール女史Pupul Jayakarが耳にしたKの最後のことばは次のようであった。
「ププル、今夜は山に長い散歩に出ようとおもう。霧が出てきたね。」
当日朝8時に数人の友人が葬儀に列席した。祈りも儀式も行われなかった。
「死後の肉体に何の意味もない。それは材木みたいなもので、火の燃料になるだけのものだ。」 とのKの遺志に従ったのだ。