読みもの
森本武 コラム
2020.5.7
『脱 思考依存の幸福論』# 02
脱思考は可能性を問わないので絶対安心をもたらす
今日の人類文化(受け入れられている常識)の主流となっている「客観的世界がある」とする視点から考えると、当然なこととして、あらゆる出来事に妥当な確率を見出そうとするのである。天気予報、出席率、合格(当選)率、税率、死亡率などなど。
一方、主観的世界に生きる人間の立場からみると、確率という概念はありえないもので、全く無意味なのである。
「今」そのことが「ここで」起こっているという事実が、存在するのか、存在しないのかだけである。この場合も、けっして、「存在の有無は50%」ではない。
主観的世界に生きる当人にとって、「起こりえた」別の事象は、その存在が候補にあがることも、可能性として予見することもなく、存在以前に存在がゆるされていないのである。
「可能性」は、考えの創作物である。考えなければ可能性はない。
主観をベースにした生が、唯一の「私」(主体)に起こっていることで認められるものは、今、ここに実現している事象だけである。
「在りうるもの」が「無い」のではなく、「在る」の発生の種も根も、もともと無いのである。種も根もねつ造された概念である。「在りうる」という空想は思考のものだから、無思考ではそれは生じない。
世界人類全体で3%のひとが感染している奇病があるとする。97%は罹らないのだから、と大方のひとの頭脳は安心する。しかし、あなたがそれに感染できないのではない。思考の世界、つまり客観世界では、感染の危険性は一定保持される。つまり、常に、不安がつきまとうのである。
春の陽気にさそわれて、ウキウキと散歩に出かけたひとが、工事中の建物から落ちてきた鉄骨に頭脳を砕かれ即死。当人に起こったことは、「(散歩に出かける)行動の動機」とも、「(この種の)事故の発生確率」とも、もちろん「健康度」や日頃の言動とも関係なく、その日、その時、死が当人の主観世界に生起しただけなのだ。これを客観主義に翻訳して、実現したことを100%とするのは不適切である。主観に立つと、分母となる起こりうる個体数は無限大になるからだ。
脱思考は、未来への夢を消滅させ、過去への愛惜を無にする。「今」からブレる思念やヴィジョンの発生への無関心から、一切の思考の産物を苦もなく断つのである。
すでに自分の経験で認識できている事象について、「○○が起こっている」という他者の説明など、昼間の屋外での懐中電灯みたいに役立たない。説明に関心を持たない思考なき意識は、リアルな世界の光を受け取っているのだ。(頭脳は光と陰影がもたらす二元的相克の姿を、「豊かな光景」ととらえるのだが、それはひとつの断片が呟く「貧しい場面」にすぎない)
2019.12.3
『脱 思考依存の幸福論』#01
ひとは、本来、幸福
しっかり考えれば、何事もうまくいく、という信仰が、人類世界を支配しているようにみえる。問題は思考力だ、という確固たる認識である。ひとの評価も思考力のあるなしが最重視されている。
他の生物にはない学校教育という営みが、考えることの重要性を繰り返し強調するものだから、「考える力=生きる力」という等式が出来上がったようだ。
思考力に優れた学生を集める学校は名門校と賞賛され、その卒業生たちは社会で大いに歓迎され、重要なポストに就き、政治、経済、文化等の領域のリーダーとなって、とても大きな権力を行使している。
いうなら、人類社会を実際に動かしているのは、必ずしもこころやさしいひとでもなく、多数の幸福を優先して行動するひとでもなく、なんとしても戦争は避けたいひとでもなく、優れた思考力が認定された頭脳優位の人たちなのである。
思考力重視に、国も、言語も、肌の色も、違いはない。
にもかかわらず、思考がはたして人類を真に幸福にしてきたのか。これはとてもビッグで深刻な問いかけだ。なのに、真剣に思考が俎上にのぼることは稀で、その思考の産み出すものに意識がすっかり占有されているのだ。
「思考」と「幸福」の関係を問うとき、幸福をどう定義づけるべきなのか。
私は、幸福とは、幸福感を感受している状態、と考えている。金に恵まれているとか、百%健康とか、家族の愛に恵まれているとかの付帯的環境要因で決められるものではないとみている。
幸福感は、生命の存在のみを唯一の必要要件とする状態である。もっとも当たり前な状態、つまり常体は「幸福を感じている」ものなのである。それが個体生命を支配している限りにおいて、そこに幸福があるのだ。
この幸福の定義から、幸福感の生起を邪魔するものがなければ、ひとは常に幸福であり、幸福感を維持し続けられる。その邪魔物の中でももっとも厄介な働きが思考なのである。思考は、幸福感の生起を邪魔する不安づくりが得意なのだ。
その論拠は、こうである。幸福感は生命の基本的属性として、本源(光)から湧き上がっているものなのに、思考の働きは、それを覆い隠す概念の暗雲をつぎつぎと生成し、その感覚を消失させるのである。知識を作動させて、わざわざ危険や困難という概念を鮮明に映像化し、ひとを不安にさせる。そもそも思考は、過去の知識や経験に制限されており、不自由さの自覚を生命に常に伝えているのである。
K's Pointからのメッセージ
2020.3.30
2020年春
親愛なる友へ
ひとは、自分に起こっていることとして、自分の体内体外の変化を見届けつつ、その変化に喜び、悲しみ、あるいは不安を、あるいは希望を感じ取って日々を過ごしています。
疫病がはやり、商売が滞り、ひととの交流がままならぬ時間を、「私」は過ごさざるをえない状況にあります。
世界はひとつの難題を共有している、という認識を、「私」の頭脳は当然のものとして受け取っています。一方、より深い、より信頼できる純粋な意識の認識においては、「私」の所有する固有の世界において、疫病報道が激増し、学校や会社の活動が制約され、手洗いやうがいの励行が、いつになく義務的に求められているという動きを冷徹に観察しています。
「私」の生きる固有の世界に、冷静に、慎重に、注目してみると、目の前に、いつものマグカップがあり、使い慣れたソファーとテーブルが変化無くあり、テレビも、携帯電話も、床のカーペットも、何の形状変化もなく、何の危機的メッセージも発せず、黙って、変容することなく、在るはずです。
思いかえせば、「私」は、このような世界に、いつの日か、やってきたのでした。
目撃してきただけでも、「私」の居合わせた場や状況は、常に変わり、縁ある多くの人が、いまは、この世界を去って、見えなくなっています。
「私」を見続けてきた目だけが、見える世界の変化とは無縁なように、何の変化もなく、今も、変わらず、存在しています。
変化するものは本質ではありません。その真理を、この目は知っています。
疫病や、不況や、消えてしまう計画や事業は、みんな本質ではありません。
現れたものは、必ず、消えていきます。現れないものは、消えることがありません。
「私」を見てきた不変の目は、誕生した経験のない純粋意識の目であり、それは現れたものではないので、消えることはありません。
現れたものをしっかり見届けるのが、真の学習です。その学習の機会を、われわれは人生と呼んでいます。
常に身体を清潔に保つこと、低体温にならないように保温対策を怠らないこと、睡眠と食事の質を確保することなどは、「私」にとって、常に重要な生活規範といえるでしょう。
現れたものに出会い、それをどのように捉え、どのように対処するか、それも学習ですが、一番大切な学習は、「変化は本質ではない」という真理を理解することだとおもいます。
変化に動じない絶対安心の意識を、われわれは与えられています。この不動の意識、その目があるからこそ、「私」に起こっている変化を観察しうるのだ、という真相を常に思い起こして下さい。
2020年3月30日 記
アナーキー・タケ(森本 武|NPO K's Point 代表)
2015.9.9
暴力を生き方として容認している人類に「自由」はない
百貨店、大型家電量販店、ネットショップなどになじんでいる都会人は、常に混乱した意識をかかえながら、選択肢の多い買い物に「自由」を感じて満足しているようです。
しかし、その「自由」にKは暴力が含まれていると指摘します。この選択のための自由には抵抗と対立が必ず伴っているからです。
戦争という大規模な暴力も、多数の選択肢に混乱した意識がしでかす愚行です。戦争を防ぐという虚妄の対策として、強力な武器を、軍隊を、軍艦に戦闘機を用意しなければならないと考えてしまいます。戦闘能力の高い国と強固に結びついていないと平和が保てないと不安になるのです。
一方、見せ掛けの自由に混乱させられない意識は、常にひとつの行動を、迷うことなく、直ちに選び取ります。そこでは、葛藤も矛盾も生じません。そのとき、真の自由があります。この自由において、平和がありのままに実現しているのです。
この5000年の間、ずっと戦争が止むことがありません。それは、人類が、生き方として暴力を受け入れてきたからです。
わたしたちは、人類の意識が本当に、真剣に暴力を排除できるのかどうかについて問いつめてこなかったのです。
私たちの生きる柔軟な社会と、この社会から時間をかけて生み出されてきた文化は、好きなことをし、好きなものを選んできましたが、そこに暴力の兆しがすでにあるのです。選択のあるところには自由はありません。選択は混乱を暗示し、明晰さをもちません。鮮明に認識できたときには、選択というものはありません。ただ行動だけがあるのです。
J. クリシュナムルティ
And there will be always wars - and there have been for 5,000 years, wars, because man has accepted violence as the way of life. And we never question whether the mind can be really and truly, deeply free of violence. And the permissive society in which we live, the culture in which this is gradually coming out of this society, to do what one likes or choose what one likes, is still an indication of violence. Where there is choice there is no freedom. Choice implies confusion, not clarity. When you see something very clearly there is no choice, there is only action.
J. Krishnamurti
Third Public Talk at San Diego State College, California, 1970
森本 武(NPO K's Point 代表)
2011.3.22
東北関東大震災に寄せて
多くの同朋の生命の喪失と生活環境の破壊に対して衷心より哀悼の意を表します。また、負傷されたり、病をかかえながら治療がままならない方々、避難所などで不自由な生活を強いられている方々に、今日の生存を悲観することなく、また希望を殊更に意識することなく、生命の根源力を堅く信じて生きのびていただきたいと願うばかりです。
また、今回の大規模な災害を、直接に経験していなくても、報道される悲惨さにつよい打撃をうけた方々に、心のあつかいについて私見を述べたいとおもいます。
災害は、事実起こった事であり、起こっている事であります。「悲惨」は、地震にも、津波にもなく、原発の事故にもなく、われわれ人間の側の意識の中にあります。
だからこそ、被害者総数は歴史的記録として意味をもつものであっても、ひとりのかけがえのない妻を失った夫にしてみれば、数字は事態を理解し納得する役には立ちません。
出来事や現象ではなく、意識に焦点をあてて、この事態の真相を理解しなければなりません。
今、日本はもとより世界中の心ある人たちから、人的物的支援以外に、哀悼と同情、そして生存を支援する思念が送られてきているのをだれもが感じていることとおもいます。
この思念は、我々が言葉として知るかぎり「慈悲」というものではないでしょうか。
「慈悲には、それ独自の知性がある」とクリシュナムルティはいいます。
この慈悲の知性とはいかなるものでしょう。他者の苦を自分のものとする積極的なおせっかいの作用をもち、個々人の意識の境界壁を易々と貫通する実践的理解力を併せ持つもの、と私は推測しています。
人生は、意識の中に展開するドラマです。
意識の発生(出現)が誕生であり、意識の消滅(退去)が死、というドラマ。意識の出没する場が生の世界となりますが、慈悲は、個々人の意識の活動域を貫通して動き回れる運動性能をもつ、という点で優れものだといえるのではないかとおもいます。
この見掛け上の苦難のドラマの展開に悲観してはいけません。意識を萎えさせてはいけません。意識の力を放棄することは、大地を汚染し、地表に伸びた樹木の根から活力を奪うことに等しい行為なのですから。
ドラマは、意識の転換によって変化します。ドラマが成立している場の環境的変化はドラマ自体を変容させるのです。
あなたが、その変化を促したいのなら、思考なき慈悲の祈りをいますぐ実践してください。しかし、早急に願望に逃げるような祈りは無力です。
また、「崇高」とか「神聖」の看板にだまされてはいけません。誰かの生み出した概念に追随するだけの祈りも無力です。
願望も、概念も、時間に束縛された思考であり、慈悲の水準に到達しえないものですから、実効性をもった祈りにはならないのです。祈りが願望に堕ちないためには、それが思考とならないことが肝要です。
思考から離脱した祈りの単純な実践としては、白光のみを思念して祈ることです。
白光が地球というボールを包み込んでいる光景を意識に明瞭に描いてください。この白光こそが慈悲の物理的な姿と認識し、その光に温かさを感じとってください。
このイメージ作りは、いうまでもなく、完全に思考そのものですから、これだけでは空想ゲームにおわってしまいます。このイメージを維持しながら自己の関わりを抜き取っていく。白光の自律的な作用に委ねきった段階に至り、「祈り」の力が現出します。
なぜ、祈りは、人生というドラマに影響を与える可能性をもっているのでしょうか。
理解すべきは、「一切が変化であり同時に無変化であるという世界が在る」という実相レベルの世界観です。最大限の意識拡大をおこなって、大宇宙の世界像を空想してみて下さい。意識が無限大を志向したとき、思考の働きが「窒息」し、空想がやがて自滅する。そして、慈悲の充満した世界が出現するのだとおもいます。
現象界での矛盾を矛盾としない実相界とは?穏やかな湖を想像してください。その水中で微生物や微細な粉塵の化学反応などが活発に生じていても、湖面は板ガラスのような安定と静けさを保っているとき、湖には変化と安定が共存しているのです。
ミクロ単位の大変化がマクロ単位の無変化と等価になっている世界こそが実相の世界です。ある視点からは、静謐だけが支配する大宇宙は、すべての「出来事」を飲み込む絶対安定の世界であるといえます。
祈りは、このような世界観においていえば、超ミクロな変化をもたらす行為でしかないのですが、同等に小さな場における作用はけっして小さくないといえます。大宇宙の中の地球という球体は、例えてみるなら素粒子のレベルの大きさでしかないので、ミクロな地球を白光で包む祈りの作用に現実味を感じませんか。
この宇宙に、不平等はありません。部分をとりあげれば、ある傾向をもつ世界に見えるかもしれませんが、それと対極の世界が、すぐ隣に存在しているのです。
祈りが、この実相世界において「声」となりえたとき、そのとき、祈りはドラマを変える力を発揮するに違いありません。
森本 武(NPO K's Point 代表)
2011年3月22日 記